
第7話「根腐れの離婚届」前編
「湿度六十%、気温二十五度。……よし、異常なし」
世田谷の閑静な住宅街。蔦(ツタ)に覆われた洋館、『竜胆(りんどう)植物クリニック』。
その薄暗い温室の中で、警視庁捜査一課の桜木花(さくらぎ はな)は、温湿度計を確認して大きく頷いた。
今日は、主である植物学者・竜胆樹(りんどう いつき)が不在だ。
「希少植物の保全に関する国際シンポジウム」とかいう、名前だけで肩が凝りそうな会議に出席するため、京都へ出張しているのだ。
「いいか、桜木。私の留守中、湿度を1%たりとも狂わせるな。もし植物たちにストレスを与えたら、君を肥料にして食虫植物の餌にする」
出発際、竜胆は氷のような目でそう言い残していった。
花は「枯らし屋」の汚名を返上すべく、非番の日を使ってこの「魔女の館」の管理人(ハウスシッター)を務めているのだ。
「ふふん。見ててくださいよ竜胆さん。私だって成長してるんですから」
花は鼻歌交じりに、棚に並ぶ植物たちを見回った。
保護された、少し歪んだ茎のパキラ。
緑色になってしまったが、元気に葉を広げるモンステラ。
そして、胴切り手術を受け、ちょこんと可愛い新芽を出した多肉植物のロメオ。
かつて事件の証拠品だった彼らは、今ではここで静かに余生(?)を送っている。
「ロメオちゃん、お水はまだだね。葉っぱがシワっとしてからあげるのがコツなんだよねー」
花が霧吹きを構えた、その時だった。
『ふざけるな! あれは俺が買ったもんだぞ!』
『毎日世話をしたのは私よ! あなたなんて見てただけじゃない!』
怒号と共に、玄関のドアが激しく叩かれた。
静寂な温室の空気がビリビリと震える。
花は慌てて入り口へ走った。
「ちょ、ちょっと! 静かにしてください! ここは植物たちの病院ですよ!」
ドアを開けると、そこには鬼の形相をした男女が立っていた。
三十代半ばだろうか。スーツ姿の夫と、ブランド物のバッグを提げた妻。
そして夫の手には、巨大な鉢植えが抱えられていた。
贈答用の立派な、しかし見るも無残に萎れた**「胡蝶蘭(コチョウラン)」**だ。
「あ、あんた誰だ? 竜胆先生はいないのか!」
夫が叫ぶ。
「先生は出張中です! 私は……その、助手の桜木です!」
花はつい見栄を張ってしまった。
夫婦の名前は、青山健太(けんた)と真理子(まりこ)。
二人は現在、泥沼の離婚調停中だという。
財産分与の話し合いは終わったが、最後に一つだけ、どうしても互いに譲れないものがあった。
それが、この胡蝶蘭だ。
「これは五年前、結婚記念日に二人で買った『愛の証』なんです!」
真理子が涙目で訴える。
「五万円もした『大輪(たいりん)』の白。店員さんは『幸福が飛んでくる』花だって言いました。私はその言葉を信じて、毎日毎日、欠かさずお水をあげて、話しかけて、大切に育ててきたんです!」
「嘘をつけ!」
健太が遮る。
「お前が世話してた? 笑わせるな。こいつが日当たりのいい場所に置いてあったのは誰のおかげだ? 俺が毎朝、重い鉢を持って南向きの窓辺に移動させてたんだぞ! 俺がいなきゃ、とっくに枯れてたはずだ!」
「なんですって!? 私は肥料だって高いのを買って……!」
ギャンギャンと言い争う二人。
しかし、花にはどうしても腑に落ちないことがあった。
二人の主張が本当なら、この胡蝶蘭は「たっぷりの水」と「十分な日光」と「高級な肥料」を与えられていたことになる。
植物が育つ三要素は完璧だ。
なのに、なぜ?
花は、健太の腕の中にある胡蝶蘭を覗き込んだ。
かつては蝶が舞うように咲き誇っていたであろう白い花は、茶色く変色して垂れ下がり、分厚いはずの葉は深い縦ジワが刻まれ、革のようにヘナヘナになっている。
それは明らかに「水切れ」の症状に見えた。
「……おかしい」
花は呟いた。
真理子は「毎日水をあげた」と言っている。
健太は「日当たりに出した」と言っている。
ならば、なぜこの子は、砂漠で遭難したように干からびているのか?
「あんた、助手ならわかるだろ! どっちの育て方が正しかったのか、白黒つけてくれよ!」
健太が詰め寄る。
「私のほうが愛してたって、証明してください!」
真理子もすがるように見る。
花はゴクリと唾を飲んだ。
竜胆なら、一目で真実を見抜くだろう。そして「くだらん」と一蹴するに違いない。
でも、今は私がやるしかない。
目の前の植物は、今にも息絶えそうだ。
「……わかりました。お預かりします」
花は、入り口のハンガーにかけてあった竜胆の白衣を手に取り、バサリと羽織った。
サイズが大きすぎて袖が余るが、今はそれが心強い鎧(よろい)だ。
「植物探偵代理、桜木花。この胡蝶蘭の『声』、私が聞きます」
花は作業台に鉢を置いた。
ずしりと重い。水切れの症状なのに、鉢は妙に重いのだ。
そして、鼻を近づけた瞬間。
湿った土の匂いとは違う、ツンとする腐敗臭が漂ってきた。
(これは……まさか)
花は、第1話で竜胆に言われた言葉を思い出していた。
『君の愛情という名の水のやりすぎが、根を殺す』
花は意を決して、美しい化粧鉢の中に手を突っ込んだ。
「ちょっと! 何するのよ!」
真理子の悲鳴を無視して、花は思い切り株を引き抜いた。
ズボッ。
水苔(みずごけ)と共に現れたのは、白く健康な根ではなく、ドロドロに溶けた黒い塊だった。
「……やっぱり」
花は夫婦を振り返り、竜胆の口調を真似て(少し震えながら)告げた。
「残念ですが、この子の根っこは死んでいます。……あなたたちの『愛』が重すぎて、息ができなくなったんです」
【Botanical Note】
胡蝶蘭(Phalaenopsis Orchid)
お祝いの定番である胡蝶蘭。高級で育てるのが難しいイメージがありますが、その正体は、東南アジアのジャングルで木の幹や岩に着生(ちゃくせい)して生きる、非常にワイルドな植物です。
彼らは土の中に根を張るのではなく、空中に根を出し、雨水や空気中の水分を吸って生きています。つまり、根っこが空気に触れていることが大好きなのです。
日本の家庭でよくある失敗は、この「着生植物」を普通の草花と同じように扱い、毎日水をあげてしまうこと。
常に湿った水苔の中に閉じ込められると、根は呼吸ができずに窒息し、腐ってしまいます(根腐れ)。
「毎日水をやる」ことは、胡蝶蘭にとっては「毎日水攻めの拷問を受けている」のと同じことなのです。