
第6話「春の迷い子」後編
竜胆植物クリニックの温室。
持ち帰られた「証拠品の朝顔」は、インキュベーター(恒温器)の中で、二十五度の快適な温度を与えられていた。
しかし、竜胆の表情は険しい。
「……やはりな。種皮(しゅひ)の細胞が破壊されている」
竜胆は顕微鏡から顔を上げ、モニターに拡大映像を映し出した。
朝顔の黒い種の殻。そこには、まるで内側から爆発したような、ギザギザとした亀裂が無数に入っていた。
「桜木、朝顔の種は『硬実種子(こうじつしゅし)』と言って、コンクリートのように硬い殻で守られている。簡単には水を通さない」
竜胆は解説する。
「通常、冬の寒さや雨風で数ヶ月かけてゆっくりと殻が劣化し、春になってようやく水が染み込んで発芽する。だが、この種は違う。一瞬にして殻がボロボロになり、強制的に水が浸透している」
「一瞬にして? 誰かが傷をつけたんですか?」
「いいや。物理的な衝撃ではない。『温度差』だ」
竜胆は、液体窒素の入った容器を取り出した。
実験用の朝顔の種を入れ、凍らせる。そしてすぐに取り出し、熱湯にくぐらせる。
パキッ。
微かな音と共に、種の殻に亀裂が入った。
「これと同じことが起きたんだ。……極低温による凍結と、その後の急激な解凍。そのショックで硬い殻が破壊され(物理的休眠打破)、種子は『冬が終わった』と勘違いして、慌てて水を吸って発芽したんだ」
竜胆は断言した。
「遺体は、死後すぐに**『マイナス20度以下の業務量冷凍庫』**に入れられていた。数年間ずっとだ」
「冷凍庫!?」
「そうだ。そして数日前、犯人は遺体を処分するために冷凍庫から出し、車で山へ運んだ。冷凍された遺体は、外気温(0度前後)に触れて解凍された。……マイナス20度の世界にいた種にとって、0度は『20度も暖かい春』だ。殻が割れた種は、溶け出した遺体の水分を吸い、季節外れの発芽をしたんだよ」
竜胆のプロファイリングにより、捜査対象は一気に絞られた。
「数年前から行方不明になっている人物」かつ「遺体を丸ごと隠せる大型冷凍庫を所有している場所」。
該当したのは、奥多摩の麓にある、廃業した水産加工工場だった。
その工場の元経営者は、借金苦で失踪したとされていたが、実は工場内の業務用プレハブ冷凍庫の奥底で、借金取りから隠れるように眠らされていたのだ。
警察が工場の冷凍庫を捜索すると、隅の方に遺体を隠していた痕跡と、こぼれ落ちた朝顔の種が発見された。
犯人は、工場の土地を売却しようとしていた共同経営者だった。
冷凍庫の電源を切る必要に迫られ、中身(遺体)が溶けて腐臭を放つ前に、山へ捨てに行ったのだ。
「……皮肉な話だ」
取調室から戻った花は、竜胆に報告した。
「被害者は、孫と一緒に朝顔を育てるのが趣味だったそうです。あの種は、孫からもらった『来年咲かせてね』というプレゼントで、ずっと大事にポケットに入れていたとか……」
被害者は殺された時も、冷凍庫の中でも、種を握りしめていた。
そして、犯人が彼を闇から引きずり出した時、種は約束を守ろうとして、最期の力で芽吹いたのだ。
犯人を告発するかのように。
「植物は、約束を破らない」
竜胆は、インキュベーターの中の朝顔を見た。
双葉は大きく開き、次の本葉を出そうとしている。
「だが、この双葉はもうすぐ枯れる」
「えっ? どうしてですか!?」
「急激な休眠打破は、種子のエネルギーを浪費させる。それに、この苗は『春化(しゅんか)』していない。正常に育つことはないだろう」
竜胆は、静かにインキュベーターのスイッチを切った。
「役目は終わったんだ。……土に還してやろう」
数日後。
竜胆クリニックの庭の片隅に、小さな盛り土ができた。
花が手を合わせている横で、竜胆は霧吹きで水をかけた。
「……来年の夏、もしここから芽が出たら、それは本当の春を知った証拠だ」
「出ますかね?」
「さあな。植物のみぞ知る、だ」
冬の風が吹き抜ける。
しかし、その風の中には、微かに春の匂いが混じっていた。
雪解けの季節は、もうすぐそこまで来ている。
【Botanical Note】
休眠打破(Dormancy Breaking)
植物の種子が、発芽に適さない時期(冬や乾季)を生き延びるために活動を停止することを「休眠」と言います。この眠りから覚めることを「休眠打破」と呼びます。
多くの植物は、「一定期間の寒さを経験すること(低温要求)」を発芽のスイッチにしています。これを人工的に再現して、冷蔵庫などで種を冷やしてから撒く技法を「春化処理(バーナリゼーション)」と言います。
今回の事件のように、極端な温度差による物理的な殻の破壊も、一種の強制的な目覚まし時計となります。
スーパーで買った野菜の種や球根を冷蔵庫に入れておくと、時期外れに芽が出てしまうことがありますが、それも彼らが「冬が来た、次は春だ!」と勘違いしてしまうからなのです。