ビザールノトリコ

ちょっと変わった植物が好き。ビザールプランツ中心の育成ノート。

【植物SS】『交配室のロゼット』第8話「最後の封筒」

前回の話はこちら

 

第8話『最後の封筒』

秋が深まり、温室内のエケベリアたちが、競い合うように鮮やかな紅葉のピークを迎えていた。

空気が澄み、静寂が心地よい11月の終わりのことだ。

温室の隅にある作業小屋の掃除をしていた湊は、傾いた古いスチールデスクの引き出しの奥から、小さな茶封筒を見つけた。

切手も貼られていない、手のひらサイズの封筒。表面には、祖父・源三の震えるような字で、こう書かれていた。

『交配式不明(最後の種)』

「……最後の種?」

湊が首を傾げていると、背後から「湊さん、お茶淹れましたよー」と、紗良が作業小屋に入ってきた。

「紗良先生。じいちゃんの引き出しから、こんなのが出てきたんだけど」

湊が封筒を手渡すと、紗良の表情がサッと変わった。彼女は手洗場で入念に手を洗い、ペーパータオルで完全に水気を拭き取ってから、息を詰めるようにしてその封筒を受け取った。

「湊さん、ドア閉めて。風が入らないように」

「えっ? ああ、わかったけど……」

紗良は作業台の上に白いコピー用紙を広げ、封筒の口をハサミで慎重に切り落とした。そして、白い紙の上でトントンと軽く封筒を叩く。

「……ん? 何も出てこないぞ。空っぽじゃないのか?」

湊が覗き込むが、紙の上には何も落ちていないように見えた。

「よく見てください。湊さんの鼻息で飛んじゃうから、息止めて」

紗良に凄まれ、湊は息を殺して白い紙を凝視した。

数秒後、目の焦点が合った瞬間、湊は思わず息を呑んだ(危うく吹き飛ばすところだったが、間一髪で手で口を覆った)。

白い紙の上。そこには、胡椒の粉よりもさらに小さい、チリや埃(ほこり)と見分けがつかないほどの微細な茶色い粒が、数十個ほど散らばっていたのだ。

「これが……種?」

「そうです。エケベリアの種です。芥子(けし)粒よりも小さくて、くしゃみを一つしたら、ここにある何十という命が全部吹き飛んで永遠にわからなくなります」

紗良は、ピンセットの先でその極小の粒を一つ、そっと指し示した。

「春に交配して、夏前に鞘(さや)が弾けて種が採れるんです。源三さんが亡くなったのが初夏でしたから……きっと、体調が悪い中で必死に受粉させて、最後に採れた種なんだと思います。手が震えて、誰の花粉をつけたのか、ノートに記録することもできなかったんでしょうね」

交配式不明。

それはつまり、どんな姿に育つのか、どんな色になるのか、全く予想がつかないということだ。しかし、祖父が命を削ってまで残した、正真正銘の「最後の実生苗」になる。

「撒きましょう、湊さん」

紗良が、真剣な目で湊を見た。

「エケベリアの種は、時間が経つほど発芽率が落ちてしまいます。秋のこの時期なら、ギリギリ間に合います」

湊は、白い紙の上にある微細な命の粒を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「……俺が、やるのか?」

「当たり前です。源三さんがこの温室を託したのは、湊さんなんですから」

湊の手のひらに、じわりと汗が滲んだ。

これまで湊は、祖父が「すでに形にした」エケベリアたちに水をやり、枯れ葉を取り、管理してきただけだ。それはあくまで「管理人」としての仕事だった。

しかし、種を撒く(播種する)ということは、ゼロから命をスタートさせるということだ。もし自分のせいで発芽しなかったら? カビを生やして全滅させてしまったら? 祖父の最後の願いを、自分の不器用な手で潰してしまうのが恐ろしかった。

「俺には無理だよ。こんな埃みたいな種、うまく土に乗せられる自信がない。紗良先生がやってくれよ。その方が確実だろ?」

湊が後ずさると、紗良は静かに首を振った。

「湊さん。今までこの温室に、色んな人が来たのを覚えてますか?」

紗良の言葉に、湊の脳裏にこれまでの出会いが蘇った。

過干渉で恋人と自分をすり減らしていた真由さん。肩書きがないことに怯えていた就活生の陸くん。極度のプレッシャーに胃を痛めていたリンゴ農家のおじさん。親の期待に押し潰されそうだった翔太くん。休むことに罪悪感を抱えていた理沙さん。

「みんな、最初は怖がってました。失敗を恐れて、立ち止まってました。でも、湊さんが、源三さんのノートと言葉で、彼らの背中を押してきたじゃないですか」

紗良は、そっと湊の背中に手を添えた。

「種まきは、確かに失敗の連続です。発芽しないこともあるし、途中で溶けちゃうこともある。でも、土に撒かなければ、100%何も生まれない。源三さんは、完璧な結果を残したくてこの種を遺したんじゃありません。湊さんに『始めることの喜び』を知ってほしくて、遺したんだと思いますよ」

湊は、作業台の上に置かれた祖父の『交配備忘録』に目をやった。

分厚いノートの最後のページには、かすれた文字でたった一言だけ、こう書かれていたのだ。

『あとは、頼む』

湊は深く、ゆっくりと息を吐き出した。

「……わかった。俺がやる」

「よしっ!」紗良がパッと明るい顔になり、手際よく準備を始めた。

「まずは土の準備です。種まき用の細かくて清潔な土を鉢に入れて、熱湯をドバーッと回しかけてください。雑菌やカビの胞子を完全に殺菌します」

言われた通りに熱湯消毒をし、土が冷めるのを待つ。

そして、水を張ったトレイに鉢を沈め、下から水を吸わせる『腰水(こしみず)』の状態を作る。

「いいですか、湊さん。エケベリアの種は『好光性種子(こうこうせいしゅし)』と言って、光を感じないと発芽しません。だから、種を撒いた後に上から土を被せるのは絶対にNGです。ただ、表面の湿った土の上に『置く』だけ」

湊は、微細な種が乗った白いコピー用紙を、震える手で二つ折りにした。

折り目に沿って種を一列に集め、湿った土の表面すれすれまで紙を近づける。

「息を止めて。……トントン、って、紙を優しく指で弾くんです」

湊は息を殺した。

静寂に包まれた温室の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。

トントン、トン。

指先で紙を軽く叩くと、目に見えないほどの微細な命の粒が、湿った黒い土の上へと、音もなく滑り落ちていった。

トントン、トン。

重ならないように、少しずつ鉢を回しながら、すべての種を蒔き終える。

「……ふはぁっ」

湊が大きく息を吐き出して肩で息をすると、紗良が「お疲れ様でした!」と拍手をした。

「あとは、乾燥しないように鉢の上からふんわりとサランラップをかけて、明るい日陰で待ちます。早ければ一週間、遅くとも一ヶ月で、緑色の小さな双葉が出ますよ」

サランラップの向こう側、湿った土の上には、もはや種の姿は肉眼では確認できない。

本当にこんなチリのようなものから、あの肉厚で美しい爪を持ったロゼットが生まれるのだろうか。途方もない奇跡のように思えた。

「何が出るかわからない、最後の種か」

湊は、ラップ越しの土を愛おしそうに見つめた。

「じいちゃん、俺、撒いたぞ。あとはお前らが、どうやって芽を出すかだ」

それは、ただの管理人だった湊が、初めて「育種家(ブリーダー)」としての第一歩を踏み出した瞬間だった。

結果がどうなるかは、誰にもわからない。しかし、土の上に蒔かれた微細な命たちは、確かに湊の手によって、明日への時間を刻み始めていた。

 

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:不明(最後の種)

  • エケベリアの種子と播種(はしゅ)
    エケベリアの種は非常に微細で、埃のように軽い。自生地のメキシコなどの乾燥地帯では、風に乗って岩の隙間などのわずかな土に飛んでいき、雨季の水分と強い光を感じて発芽する。
  • 源三のメモ(ノート最終ページ):
    『目が霞み、ピンセットを持つ手も震え、今年の花粉づけは散々なものだった。どの花に誰の花粉をつけたのか、もう定かではない。交配式を記録できない種など、園芸の世界では価値のない「名無し」だ。だが、それでも彼らは生きている。私の頭の中の設計図など軽々と飛び越え、どんな顔で生まれてくるのか。それを見届けられないことだけが、唯一の心残りだ。あとは、頼む。』

 

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第8回:チリのような種を発芽させる「実生(みしょう)」の魔法〜

多肉植物の醍醐味である「実生(種まき)」。しかし、エケベリアの種は本当に「ホコリ」のように小さいため、普通の花や野菜の種まきと同じように扱うと、100%失敗してしまいます。発芽を成功させるためのプロのテクニックをご紹介します。

  1. 土の「熱湯消毒」はマスト
    種が極小であるため、発芽直後の赤ちゃんはカビや苔(コケ)に一瞬で飲み込まれてしまいます。種を撒く前に、市販の「種まき用土」に熱湯をたっぷりと回しかけ、土の中の雑菌を完全にリセットしてから冷ましましょう。
  2. 絶対に「土を被せない」
    エケベリアの種は光を感じて発芽する「好光性種子(こうこうせいしゅし)」です。種を撒いた後に土を被せると、永遠に発芽しません。湿らせた土の上に「そっと落とすだけ」が正解です。
  3. 「腰水(こしみず)」と「密閉」で湿度100%をキープ
    発芽するまでの間、土の表面が数時間でも乾燥してしまうと、種は死んでしまいます。鉢の半分くらいまで水に浸かるようにトレイに水を張る「腰水(底面給水)」を行い、さらに上から透明なラップや蓋を被せて、鉢の中を「湿度100%のサウナ状態」に保ちます。

カビとの戦いでもありますが、10日ほど経って、土の表面に「1ミリにも満たない緑の点(双葉)」が見えた時の感動は、何物にも代えがたい経験になりますよ!

 

【植物SS】『交配室のロゼット』第7話「夏の休眠」

前回の話はこちら

 

第7話『夏の休眠』

「あーっ! 湊さん、ストップ! そのジョウロを今すぐ床に置いて!」

刺すような蝉時雨が響く、8月の昼下がり。

むせ返るような熱気が充満する温室で、紗良の鋭い声が飛んだ。

「なんだよ、こんなに暑いんだぞ。土もカラカラだし、こいつら喉が渇いて死んじゃうだろ」

首に巻いたタオルで汗を拭いながら、湊はジョウロの先をエケベリアの鉢に向けたまま反論した。

「死にます! 今、その頭から水をぶっかけたら、鉢の中の土が熱湯になって、根っこが煮えて完全に死にます!」

紗良は血相を変えて飛んでき、湊の手からジョウロを奪い取った。

「いいですか、湊さん。今は日本の真夏、多肉植物にとっての『地獄の季節』です。エケベリアの多くは涼しい高山地帯の生まれだから、日本の高温多湿には耐えられないの。だから彼らは今、成長をピタリと止めて『休眠』してるんです」

紗良が指差した先には、『月影(エレガンス)』という札が刺さったエケベリアがあった。

春にはふんわりと開いていた青白い葉が、今はまるでバラの蕾のように、固く、ギュッと中心に向かって丸まっている。一番外側の葉は茶色く干からびて、カサカサと音を立てそうだった。

「ほら、葉っぱを閉じてるでしょ。これは、太陽の光が当たる面積を少しでも減らして、水分の蒸発を防ぐための防御姿勢。外側の葉っぱを自ら枯らして、その養分を吸って中心の命だけを守ってるんです」

「……つまり、今は寝てるってことか?」

「そう。寝てる時にステーキ(肥料)を口にねじ込まれたり、バケツで水ぶっかけられたりしたら、人間だって死ぬでしょ? 夏の間は、風通しの良い日陰で、ただひたすら『そっとしておく』のが最大の愛情なんです」

なるほど、と湊がジョウロを片付けようとした時、温室の入り口に人影が揺れた。

「あの……開いてますか」

そこに立っていたのは、季節外れの長袖カーディガンを羽織り、ひどく青白い顔をした女性だった。手には、小さな紙袋を提げている。

「いらっしゃい。……大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

湊が慌てて扇風機の風が当たるパイプ椅子を勧めると、女性――理沙(りさ)と名乗った彼女は、力なく腰を下ろした。

「すみません。春に、ここでこの子を買ったんです。でも、私の育て方が悪いみたいで……」

理沙が紙袋から取り出したのは、先ほど湊が見ていたのと同じ『月影』だった。

しかし、その姿は異様だった。休眠して固く丸まっているべき葉が、無理やり開かされたようにだらんと垂れ下がり、根元に近い葉は黄色く透き通って、ぶよぶよのゼリー状(ジュレた状態)になっている。土は、水でべちゃべちゃに湿っていた。

「……お水、毎日あげてましたか?」紗良が静かに尋ねる。

「はい。最近、なんだか元気がなくて、葉っぱも縮こまっちゃったから……お水が足りないのかと思って。栄養剤も挿したんですけど、どんどん黄色くなって崩れていくんです」

理沙の目は、ひどく充血していた。

「私、この子をなんとか成長させなきゃって。立ち止まったらダメになっちゃうって思って、毎日……」

「理沙さん」

紗良の優しい声が、理沙の言葉を遮った。

「この子は、怠けて成長を止めたんじゃないんです。過酷な夏をやり過ごすために、自ら『休む』ことを選んだんです。それなのに、無理やりお水を飲まされて、休むことを許されなくて……疲れ切って、根っこが窒息してしまったんですよ」

その言葉を聞いた瞬間、理沙の肩がビクッと跳ねた。

彼女は両手で顔を覆い、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「……私のことだ」

嗚咽に混じって、理沙の震える声が響いた。

「私、先月から会社を休職してるんです。大きなプロジェクトを任されて、毎日終電まで働いて……ある朝、突然ベッドから起き上がれなくなって」

理沙は、ぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「お医者さんには『今はとにかく休んでください』って言われました。でも、休めないんです。同僚たちは今も汗水垂らして働いて、前に進んでるのに。私だけが部屋に引きこもって、何も生産してない。成長もしてない。ただ息をしてるだけの自分が、情けなくて、申し訳なくて……」

何もしていない自分への、強烈な罪悪感。

無理にでも動かなければと焦る心を、目の前の動かない植物に投影し、水をやり続けてしまったのだ。

湊は、じっと理沙の涙を見ていた。

そして、作業台の引き出しから、すっかり手になじんだ祖父の『交配備忘録』を取り出した。

「理沙さん。俺のじいちゃんが、ノートにこんなことを書いてます」

湊は、夏の管理のページを開き、ゆっくりと読み上げた。

『初心者は、植物が動かない夏を嫌う。水をやり、肥料をやり、無理に成長させようとして株を腐らせる。だが、休眠は決して「死」でも「停滞」でもない。秋の涼しい風が吹いた時、再び美しい葉を広げるための、高度で立派な生存戦略なのだ。

何もしないのではない。「休むという大仕事」を、全力でこなしているのだ。休むことに罪悪感など持つ必要はない。堂々と、やり過ごせばいい』

読み終えた湊は、ノートを閉じ、理沙に微笑みかけた。

「……だそうです。だから理沙さんも、今は無理に水を飲んで成長しようとしなくていい。この月影と同じです。秋が来るまで、ただじっと、涼しい日陰で生き延びるだけで満点なんですよ」

理沙は、ぶよぶよになってしまった月影の鉢を両手で包み込んだ。

「……休むという、大仕事」

「そうです」紗良が頷いた。「この月影、まだ中心の成長点は生きてます。ぶよぶよになった葉っぱを取り除いて、涼しい日陰で秋までゆっくり寝かせてあげましょう。理沙さんも一緒にね」

「はい……。私、一緒に休みます。秋が来るまで」

理沙の顔から、先ほどまでの強迫観念のような焦りが消え、憑き物が落ちたような穏やかな表情に戻っていた。

理沙が帰った後の温室。

紗良が手際よく、50%の光を遮る銀色の『遮光ネット』を温室の天井に張り巡らせ、空気を循環させるためのサーキュレーター(扇風機)のスイッチを入れた。

「休むのも、なかなか体力がいりそうだな」

風に揺れる遮光ネットを見上げながら、湊が呟いた。

「ええ。私たちのお仕事は、彼らが『気持ちよく寝られる環境』を作ってあげることですから。さあ湊さん、枯れ葉の掃除、まだまだ残ってますよ!」

「鬼! さっき休んでいいって言ったばかりだろ!」

「植物は休んでも、人間は休めませんー!」

蝉の声に混じって、二人の笑い声が夏の温室に響く。

過酷な夏。しかし、焦る必要はない。秋の風が吹けば、彼らは必ずまた、息を呑むような美しいロゼットを開いてくれるのだから。

 

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:夏場の休眠と、月影(エレガンス)の生態

  • エケベリア・エレガンス(Echeveria elegans / 和名:月影)
    メキシコ原産。半透明の美しい縁(エッジ)を持つ青白い葉が特徴。エレガンス系の交配種は、暑さや乾燥から身を守るために、夏場は葉をギュッと中心に丸め、休眠姿勢をとるのが非常に分かりやすい。
  • 源三のメモ:
    『月影が葉を閉ざす姿は、決して哀れなものではない。己の身を守るための、完璧な防塞の形である。外側の葉はカリカリに枯れていくが、それは中心の命(成長点)を守るための毛布代わりだ。無理に剥がしてはいけない。夏は、彼らが動かないことを愛でる季節だ。人間も植物も、ただ呼吸をして命を繋ぐだけで精一杯な季節がある。それを許容できるのが、真の園芸家である。』

 

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第7回:多肉植物を「ジュレさせない」夏のスパルタ管理術〜

多肉植物を育てる上で、最も多くの人が挫折するのが「日本の夏」です。昨日まで元気だった株が、朝起きたら半透明のゼリー状になって崩れていた(通称:ジュレる)。この悲劇を防ぐための、夏の鉄則をお伝えします。

  1. 直射日光は避ける(遮光する)
    エケベリアは日光が大好きですが、日本の真夏の直射日光は「殺人的」です。葉焼けを起こし、一瞬で煮えてしまいます。7月〜9月上旬までは、明るい日陰に移動させるか、市販の「遮光ネット(遮光率40〜50%)」を使って、強すぎる日差しを和らげてください。
  2. 水やりは「夕方〜夜」に、サッと少しだけ
    真昼に水やりをするのは、鉢の中に熱湯を注ぐのと同じ行為です。夏場の水やりは、気温が下がる「夕方以降」に。それも、鉢底から流れ出るほどタップリではなく、土の表面がサッと濡れる程度の「葉水を兼ねた軽い水やり」で十分です。
  3. 風通しが命! サーキュレーターを活用
    夏場の多肉にとって、暑さよりも恐ろしいのが「蒸れ」です。無風の場所に濡れた土を置いておくのは絶対にNG。ベランダや室内で育てる場合は、小型の扇風機やサーキュレーターを使って、常に鉢の周りに「微風」を当てて空気を動かしてあげましょう。

夏は「育てる」のではなく「生き残らせる」季節。少しスパルタに聞こえるかもしれませんが、心を鬼にして「構いすぎない」ことが、彼らを守る最大の秘訣です。

 

【植物SS】『交配室のロゼット』第6話「フリルの系譜」

前回の話はこちら

 

第6話『フリルの系譜』

「エケベリアにも流行り廃りがあるのか……知らなかった」

肌寒い11月の週末。作業台でストーブにあたりながらスマートフォンを眺めていた湊は、感心したように呟いた。

画面には写真共有アプリが開かれており、『#多肉植物のある暮らし』というタグには、パステルカラーの、コロンと丸みを帯びた小さな多肉植物の写真が何千枚も並んでいる。

「そうですよ。今は『韓国苗』と呼ばれる、葉が短くてムチムチした、お菓子みたいに可愛い交配種が大ブームなんです」

隣で熱いお茶をすすりながら、紗良が解説した。

「日本の住宅事情にも合ってますからね。ベランダの小さなスペースでも、カラフルで可愛い鉢がたくさん並べられる。いわゆる『映え』です」

「なるほどな」

湊はスマホから目を上げ、温室の最奥にある、一段低い木製ベンチを見やった。

そこには、スマホの画面に並ぶ「可愛い多肉」とは対極に位置する異形の植物たちが、どっしりと鎮座している。

直径はゆうに30センチを超え、茎は木の枝のように太く伸び上がり(木立ち)、キャベツのような巨大な葉の縁には、ドレスの裾のような激しいフリル(波打ち)が入っている。色は赤黒いものや、青白いもの、毒々しいほどに鮮やかなピンクなど様々だ。

「……じゃあ、あそこの『巨大キャベツ軍団』は、今のご時世じゃ全く売れないってことか。場所ばっかり取るし、少し整理したほうがいいんじゃないか?」

湊がそう口にした瞬間、ガラリと温室の戸が開き、「とんでもない!」という野太い声が響いた。

「あれを整理するなど、正気の沙汰ではないぞ、青年!」

ビクッとして振り返ると、そこにはツイードのジャケットに身を包み、ハンチング帽を被った初老の紳士が立っていた。背筋はピンと伸び、手には立派なステッキを握っている。

「いらっしゃいませ、倉田(くらた)さん! お久しぶりです」

紗良がパッと立ち上がり、笑顔で頭を下げた。

「ふむ、紗良くんか。源三さんが亡くなってから足が遠のいていたが、今日はどうしてもあの『キャベツ』の顔が見たくてな。……そちらは、源三さんのお孫さんかな」

倉田と名乗った紳士は、湊の顔をじろりと見た後、一直線に奥の巨大フリルエケベリアの棚へと歩いていった。そして、まるで名画を鑑賞するように、感嘆の吐息を漏らした。

「素晴らしい……。源三さんの『パーティードレス』の交配は、いつ見ても見事なウェーブだ。この荒々しくも優雅な躍動感。最近の、縮こまったような小ぶりな苗にはない、圧倒的な生命力だよ」

倉田は、巨大なフリルエケベリアの葉の縁を、愛おしそうにステッキの先で指し示した。

「倉田さんは、昔から大型のフリル系エケベリアを専門に集めていらっしゃる愛好家なんです」

紗良が湊に小声で耳打ちした。

「実はな、昨日、娘が孫を連れて遊びに来てな」

倉田は棚から目を離さず、ぽつりとこぼした。

「私の温室を見るなり、こう言ったんだ。『お父さん、こんなお化けキャベツみたいなのばっかり育ててないで、もっと可愛い今風のにしたら? 場所も取るし、ちっともオシャレじゃない』とね」

倉田の肩が、少しだけ小さく見えた。

「娘は、誕生日プレゼントだと言って、韓国から輸入されたという、爪の先ほどしかないパステルカラーの可愛らしい苗を置いていった。確かに綺麗だ。今の若い人たちが好むのもよくわかる。時代は変わったのだと、痛感したよ」

長年愛してきたものを、一番身近な家族に「時代遅れ」と否定される悲哀。湊は、自分が先ほど「整理したほうがいい」と言ってしまったことを激しく後悔した。

「……時代遅れ、ですかね」

湊はゆっくりと歩み寄り、倉田の隣に立った。

巨大なフリルエケベリアは、湊の顔よりも大きく、まるでバサバサと羽ばたく鳥の翼のようにも見えた。

「俺はド素人なんで、流行りとかは全然わかりません。でも、こいつらが『縮こまっていない』ことだけはわかります」

湊は作業着のポケットから、すっかり手垢で黒ずんだ祖父の『交配備忘録』を取り出した。もはや、このノートを開くのは湊の無意識のルーティンになっていた。

大型フリル系のページには、祖父の力強い文字が躍っていた。

「じいちゃんのノートです。こう書いてありますよ」

湊は、倉田に聞こえるようにはっきりと読み上げた。

『園芸界にも流行はある。今は小さくて丸い交配種がもてはやされる時代だ。大型のフリル系は場所を取り、水も肥料も食うため、敬遠されがちだ。しかし、他人の「可愛い」という物差しで、自分の「好き」という感情を切り詰める必要がどこにある?

流行は数年で巡るが、己の心が震える普遍の美しさは一生モノだ。私はこの温室で、世界一堂々としたフリルを育て続ける』

読み終えた湊が顔を上げると、倉田の目がうっすらと潤んでいた。

「源三さん……。そうか、彼もまた、孤独に自分の『好き』と戦っていたのだな」

倉田はハンカチで目元を拭うと、再び力強い目でフリルエケベリアたちと向き合った。

「青年、先ほど君は『整理する』と言っていたな。ならば、この一番巨大で、一番激しく波打っている株を、私が買い取ろう。我が家の温室のど真ん中に、特等席を作ってやらねばならんからな!」

「えっ、でも、娘さんにまた何か言われるんじゃ……」

湊が心配すると、倉田はステッキで床をトンッと叩き、ニヤリと笑った。

「何、娘にはこう言ってやるさ。『お前の可愛い多肉も良いが、パパの心はこのキャベツと一緒に踊っているんだ』とな!」

数十分後。

倉田は、抱えきれないほど巨大な鉢を後生大事に抱きかかえ、ホクホク顔でタクシーに乗り込んでいった。

それを見送った後、湊は温室の奥に戻り、少しだけ空いたベンチの隙間を見つめた。

「なんか、あそこのスペースが空いたら、急に温室が寂しくなった気がするな」

湊がこぼすと、紗良がクスッと笑った。

「巨大キャベツ軍団の魅力に気づいちゃいましたか? 大型のフリル系は、育てるのに少しコツがいりますけど、春になると本当に見事な花を咲かせるんですよ」

「へえ。じゃあ、来年の春には俺も交配に挑戦してみるか。とびきりデカくて、バサバサのやつをさ」

湊が冗談めかして言うと、紗良は目を輝かせて「言いましたね!?」と迫ってきた。

流行が移り変わっても、本当に好きなものを愛し抜く強さ。

祖父が遺した巨大なフリルたちは、今日も温室の奥で、誇り高くその葉を広げていた。

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:大型フリル系交配(ギビフローラ・ハイブリッド)

  • ギビフローラ(Echeveria gibbiflora)およびその交配種群
    エケベリアの中でも最大級に成長する原種の一つ。この血を引く交配種群(ディックスピンク、高砂の翁、パーティードレスなど)は、キャベツのように巨大化し、葉の縁に激しいフリル(ウェーブ)やコブが現れるのが特徴。
  • 源三のメモ:
    『コンパクトな多肉が主流の現代において、直径40cmにも達するギビフローラの交配は時代遅れの長物かもしれない。だが、この躍動するフリルの縁に夕陽が透けた時の美しさを知ってしまえば、もう小さな鉢には戻れない。流行を追うのも園芸の楽しさだが、時代に流されず「自分の絶対的な好み」の根を深く張ることこそ、真の趣味家の姿である。』

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第6回:巨大化する「フリル系」エケベリアの育て方〜

可愛い小ぶりなエケベリアと同じように育てているのに、なんだかフリル系エケベリアの下葉がどんどん枯れて、みすぼらしい姿になってしまう……。

実は、大型のフリル系(ギビフローラ交配など)は、他のエケベリアと少しだけ「ご飯(水と肥料)」の好みが違うのです。

  1. 水やりは「少し多め」を意識する
    葉が大きく薄いため、普通の肉厚なエケベリアよりも水分の蒸発が早いです。他の鉢が「土が乾いてから数日後」なら、フリル系は「土が乾いたらすぐ」にたっぷりと水を与えてください。水切れを起こすと、せっかくの美しい下葉が枯れ落ちてしまいます。
  2. 「肥料」を好む大食漢
    大きく育つ品種は、それだけエネルギーを必要とします。春と秋の成長期には、薄めた液体肥料を水やり代わりに与えるか、緩効性(ゆっくり効く)の固形肥料を土に置いてあげると、葉の波打ち(フリル)がより激しく、立派に育ちます。
  3. 「木立ち」は立派な成長の証
    フリル系は成長が早く、茎が木の枝のように太く伸びていきます(木立ちと言います)。「間延びしちゃった!」と慌てて首を切る(胴切りする)必要はありません。太い茎の先に巨大なロゼットを掲げる姿こそ、大型系の完成された美しさなのです。大きめの重い鉢に植え替えて、その堂々たる姿を楽しんでくださいね。

 

【植物SS】『交配室のロゼット』第5話「葉挿しのクローン、実生の個性」

前回の話はこちら

 

第5話『葉挿しのクローン、実生の個性』

「ちがーう! 湊さん、力任せに引っ張っちゃダメです! 成長点が葉っぱに残るように、右、左って優しく揺らしてもぎるんです!」

よく晴れた休日の午後。温室の作業台では、紗良によるスパルタ『葉挿し(はざし)』特訓が行われていた。

湊の手元には、徒長して(間延びして)茎がヒョロヒョロになってしまった『白牡丹(はくぼたん)』という多肉植物がある。紗良の指示に従い、茎から葉を一枚一枚、慎重にもぎ取っていく。

「右、左、ポキッ……おっ、綺麗に取れたぞ」

「はい、合格! その葉っぱの付け根から、新しい根っこと赤ちゃん(新芽)が出てくるんですよ。乾いた土の上に、重ならないように並べてください」

言われた通り、平たい育苗トレイに数十枚の葉を並べていく。

多肉植物の生命力は凄まじい。もぎ取った葉っぱをただ土の上に転がしておくだけで、やがて自らの養分を使って小さな自分の分身を作り出すのだ。

「不思議だよな。種を蒔くわけでもないのに、葉っぱ一枚から命が生まれるなんて」

湊が感心していると、背後から不意に声がした。

「……それ、全部同じ顔になるんですか?」

振り返ると、温室の入り口に学生服姿の少年が立っていた。肩から提げたスポーツバッグには、地元の進学校の校章が入っている。年は高校二年生くらいだろうか。

「いらっしゃい。ああ、葉挿しのことか。そうだよ、この葉っぱから育つ子供は、親と全く同じ姿になるらしい」

湊が答えると、少年は薄く笑った。

「へえ。クローンなんですね。気楽でいいな」

少年は、土の上に並べられた白牡丹の葉を、どこか冷めた目で見下ろした。

「僕、近くの予備校をサボってきちゃって。少し休ませてもらってもいいですか」

「かまわないよ。俺は湊。そっちのやかましい師匠は紗良だ。君は?」

「やかましいとは失礼な!……どうぞ、空いてる椅子に座って」

「翔太(しょうた)です。すみません、お邪魔して」

翔太はパイプ椅子に座ると、大きなため息をついた。

「クローンって、親の敷いたレールをそのまま走るってことですよね。失敗しないし、親の期待通りの顔になる。……僕と同じだ」

翔太の父親は、地元で代々続く歯科医院の院長だという。幼い頃から「お前は医者になるんだ」と刷り込まれ、疑問を持つこともなく勉強してきた。しかし、進路を決める時期になり、ふと「自分は本当に医者になりたいのか?」と足がすくんでしまったらしい。

「別にやりたいことがあるわけじゃないんです。でも、親父のコピーみたいに生きて、親父と同じ顔になって、同じように年を取るのかなって思ったら、急に息が詰まって……」

翔太は、葉挿しのトレイを指差した。

「この葉っぱたちも、親のエゴで増やされて、親と同じ顔になることを強要されてるんですよね。なんだか可哀想だな」

その言葉に、湊は少し言葉に詰まった。

確かに、葉挿しは親と全く同じ遺伝子を持つ「クローン」だ。生産者にとって、人気のある品種を確実に、大量に増やすための効率的な手段でもある。

沈黙を破ったのは、紗良だった。

「翔太くん、それは少し誤解してるかも」

紗良は立ち上がり、温室の奥の棚から別の黒いトレイを二つ持ってきた。

「こっちのトレイを見て。これが、葉っぱから増えた『葉挿し』の白牡丹」

そこには、先ほど湊が並べたのと同じように、親の葉の付け根から、全く同じ形をした小さなロゼットがポコポコと顔を出していた。

「で、こっちのトレイを見て。これは、源三さん(湊のおじいちゃん)が、交配して種から育てた『実生(みしょう)』の苗たち」

紗良が示したもう一つのトレイを見て、翔太は目を丸くした。

そこには、小指の先ほどの小さな多肉植物がびっしりと生えていたが、驚くべきことに、そのどれもが「違う顔」をしていたのだ。

あるものは葉が丸く、あるものは爪が鋭く、あるものは赤っぽく、あるものは青白い。

「これ、全部違う種類なんですか?」

「ううん。全員、同じお母さんとお父さん(同じ交配式の種子)から生まれた『兄弟』だよ」

紗良は、ふふっと笑った。

「植物の増やし方には、大きく分けて二つあるの。葉挿しみたいな『栄養繁殖(クローン)』と、花粉をつけて種を作る『有性生殖(実生)』。

葉挿しは確かに親と全く同じ顔になる。でも、実生は違う。同じ親から生まれても、お父さんに似る子、お母さんに似る子、おじいちゃんに似る子……一つとして同じ顔にはならない。とんでもない個性が爆発することもある」

湊は作業台から、祖父の『交配備忘録』を引き寄せた。

そして、実生の記録が書かれたページを翔太の前に開いた。

「じいちゃんは、ノートにこう書いてる」

湊はゆっくりと読み上げた。

『葉挿しのクローンは、安心をもたらす。親の優れた性質を確実に受け継ぐからだ。しかし、育種家(ブリーダー)である私が本当に胸を躍らせるのは、種から育てる実生(みしょう)のトレイを覗き込む時だ。親の期待を裏切り、全く予想もつかない姿へと成長していく彼らの中にこそ、未来の傑作が隠されている』

湊はノートを閉じ、翔太を見た。

「翔太くんは、葉挿しの葉っぱじゃない。人間はみんな『実生』なんだ。親の遺伝子は受け継いでいるかもしれないけど、クローンじゃない。どんな顔になって、どんな色の葉を伸ばすかは、これから君自身が決めることなんじゃないか?」

「僕が……決める……」

翔太は、実生のトレイの中で、一際赤くツンと尖った個性的な苗をじっと見つめた。それは親のどちらとも違う、不思議な魅力を持った小さな命だった。

「それにさ」と、湊は自分の首を掻きながら付け加えた。

「親と同じ道を歩くのが『コピー』だって決めつけるのも、もったいないよ。同じ土に植えられても、日の当たり方や水の飲み方で、少しずつ違う顔になっていく。もし医者になったとしても、君は親父さんとは違う『君だけの顔』をした医者になるはずだ。……まあ、俺も最近まで、会社というトレイの中で無難なクローンになろうとしてたから、偉そうなことは言えないけどな」

翔太の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。

「……実生か。そっか、僕は親父の葉挿しじゃないんだ」

翔太は立ち上がり、スポーツバッグを肩にかけ直した。

「もう少し、予備校サボって自分と向き合ってみます。親父のレールの上でも、僕だけの形に育つ方法があるかもしれないし。……湊さん、紗良さん、ありがとうございました」

「おう、またいつでもサボりに来いよ。次は水やりの手伝いさせるけどな」

「紗良先生のスパルタ指導付きですよ!」

翔太は少しだけ明るい顔で笑い、温室を後にした。

夕暮れの温室。

湊は、土の上に並べられた白牡丹の葉っぱたちを見下ろした。

「クローンでも、実生でも、命が育つってのは面白いな」

「でしょ? 湊さんもついに多肉の沼に片足を突っ込みましたね!」

「やかましい。……ほら、残りの葉っぱも全部もぎるぞ」

不器用な青年と、賑やかな師匠。

温室の中では、葉挿しのクローンたちも、実生の個性的な苗たちも、等しく夕日を浴びて、静かに明日への根を伸ばしていた。

 

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:無性生殖(葉挿し)と有性生殖(実生)の違い

  • 葉挿し(クローン増殖)
    グラプトペタルム属や、エケベリアの普及種(白牡丹、秋麗、朧月など)は、葉を土に置いておくだけで高確率で発芽・発根する。遺伝子の交差が起こらないため、親株と100%同じ形質を持つクローンとなる。
  • 実生(種子繁殖)
    異なる株(または自家受粉)の花粉を交配させて種を採り、それを蒔いて育てること。遺伝子がシャッフルされるため、同じ鞘(さや)から採れた兄弟でも、顔(ロゼットの形、爪の鋭さ、紅葉の色)に大きな個体差(メンデルの法則等によるばらつき)が生まれる。
  • 源三のメモ:
    『葉挿しのトレイは、まるで量産工場のようで安心感がある。しかし、私の心を捕らえて離さないのは実生のトレイだ。数百の双葉の中から、親の長所を奇跡的なバランスで受け継いだ「たった一つの顔」を見つけ出す喜び。親の期待を良い意味で裏切る変異株が出た時こそ、ブリーダー冥利に尽きるというものだ。』

 

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第5回:失敗しない「葉挿し」の3つの鉄則〜

多肉植物の最大の魅力とも言える「葉挿し(はざし)」。落ちた葉っぱから小さな赤ちゃんが生まれる姿は、何度見ても感動します。しかし「干からびてしまった」「ジュレて(腐って)しまった」という失敗もよく耳にします。

成功率を劇的に上げるための3つの鉄則をお教えします。

  1. もぎる時は「付け根」を完全に残す
    葉挿しの命は、茎とくっついていた「付け根(成長点)」にあります。途中でちぎれたり、えぐれたりした葉からは絶対に芽が出ません。茎を持って、葉を左右に優しく揺らしながら「ポキッ」と綺麗に外しましょう。
  2. 芽が出るまで「水は一滴もあげない」
    ここが最大の勘違いポイント! 土の上に置いた葉っぱに、毎日シュッシュッと霧吹きをしていませんか? 根がない状態の葉に水を与えると、雑菌が繁殖して腐る原因になります。親葉の中にはたっぷりと水分が蓄えられています。根と芽がしっかりと顔を出すまでは、明るい日陰で「完全断水」で放置してください。
  3. 親葉がカリカリになるまで見守る
    無事に芽と根が出たら、土に軽く根を埋め、ここで初めて優しく水やりを開始します。赤ちゃんは、親葉の養分を吸って成長します。親葉がシワシワのカリカリに枯れ果てて自然に外れるまでは、絶対に無理に引き剥がさないでくださいね。

【植物SS】『交配室のロゼット』第4話「紅葉のスイッチ」

前回の話はこちら

 

第4話『紅葉のスイッチ』

「おい紗良先生、大変だ! こいつ、病気かもしれない!」

秋の気配が深まり、朝晩の空気がひんやりと冷たくなってきた10月のある日。

温室の見回りをしていた湊は、慌てた様子で紗良を呼んだ。彼が指差した先には、ツルツルとした硬い葉を持つ、星のような形をしたエケベリアがあった。

数週間前まで青々としていたはずのその葉の縁が、まるで血のようにドス黒く、べったりと赤く変色しているのだ。

「うわっ、葉焼けか? それとも何かの菌に感染したのか?」

「……湊さん、そろそろ初心者マーク外しましょうか」

駆け寄ってきた紗良は、呆れたように湊の肩をポンと叩き、その鉢を愛おしそうに両手で包み込んだ。

「病気じゃありません。最高に健康な証拠です。見てください、この見事なエッジの染まり具合。ついに『紅葉(こうよう)』のスイッチが入ったんですよ!」

「紅葉? 多肉植物も紅葉するのか?」

「もちろんです。エケベリアの本当の美しさは、秋から冬にかけての紅葉にあるって言うタニラーも多いんですから。特にこの『アガボイデス』の系統は、葉の縁からツメにかけての強烈な赤や黒の染まり方がたまらないんです」

紗良がうっとりと鉢を眺めていると、ガラガラと温室の戸が開いた。

「あの……すみません。表に回ったら、こちらのビニールハウスが見えたもので。なんだか土の匂いが恋しくて、つい勝手に入ってきてしまいました」

そこに立っていたのは、作業着の上にジャンパーを羽織った、がっしりとした体格の中年男性だった。その顔には、隠しきれない疲労と深い焦燥感が刻まれている。

「いらっしゃいませ。どうぞ、ゆっくり見ていってください」

湊がパイプ椅子を勧めると、男性は「すみません」と力なく腰を下ろし、大きなため息をついた。

「私、長野県の飯綱町というところから来たリンゴ農家でして……。明日、東京の大きなフルーツマーケットのイベントに初めて出店するんです」

「へえ! 飯綱町のリンゴ、美味しいですよね。今は時期的に……」

「はい。『シナノスイート』をたっぷりと積んできました。自信作だったんです。……地元にいる時までは」

男性は、膝の上でゴツゴツとした両手を固く組んだ。

「今日、会場の設営に行ってきたんですが……周りは都会の洗練された有名店や、パッケージからしてオシャレなブランド果物ばかりで。私のような田舎の農家が、ただ段ボールに詰めただけのリンゴを並べて、果たして都会の人に受け入れてもらえるのかと……」

初めての東京、初めての大舞台。周囲との圧倒的な差を見せつけられ、男性はプレッシャーで押しつぶされそうになっていた。ホテルにいても息が詰まり、無意識に土の匂いを求めてこの郊外の温室まで歩いてきてしまったらしい。

「極度のストレスで、胃に穴が開きそうです。私には、こんな大舞台は早すぎたのかもしれません……」

うつむく男性の姿に、湊は何も言えなくなった。新しい挑戦に伴う重圧。それは、温室を継ぐ決意をしたばかりの湊にとっても、決して他人事ではなかった。

沈黙の中、紗良が静かに立ち上がり、先ほど湊が「病気だ」と騒いでいたアガボイデスの鉢を男性の目の前に置いた。

「農家さんなら、ご存知ですよね。植物の葉っぱがどうして赤く紅葉するか」

「え……? ああ、アントシアニン色素ですよね。葉緑素が分解されて……」

「そうです。でも、ただ秋になれば勝手に赤くなるわけじゃありません」

紗良は、アガボイデスの鋭く赤い葉先をそっと指で撫でた。

「エケベリアを綺麗に紅葉させるために、私たち愛好家はわざと『過酷な環境』に置くんです。昼間はたっぷりお日様に当てて、夜は凍えるような寒さに晒す。さらに、お水も極限まであげないようにして、カラカラに乾かします」

「そんなことしたら、枯れてしまわないんですか?」

「枯れる寸前の『生命の危機』を感じさせるんです。寒さや水不足という強い『ストレス』を感じて初めて、多肉植物は自分の身を守るためにアントシアニンを作り出し、こんなにも鮮やかな、息を呑むような色に染まるんです。ぬくぬくと温かい部屋で、お水をたっぷりもらって甘やかされた株は、ずっと緑色のままなんですよ」

湊はハッとして、作業台の上にあった祖父の『交配備忘録』を引き寄せた。

アガボイデスのページを開くと、そこには祖父の力強い字でこう記されていた。

『ストレスは毒ではない。植物にとって、それは本来の色を引き出すためのスイッチだ。厳しい寒風に晒され、渇きに耐えた株だけが、宝石のような極彩色の紅葉を見せる。痛みを知らない緑色の葉より、試練を越えて赤く染まった葉の方が、何倍も美しく、人の心を打つ』

湊はノートから顔を上げ、男性を真っ直ぐに見つめた。

「……おじさんの作ってきたシナノスイートも、飯綱町の厳しい寒暖差というストレスがあったからこそ、あんなに真っ赤で甘く育ったんじゃないですか?」

男性の目が、見開かれた。

「今、おじさんが感じているプレッシャーや恐怖は、決して毒なんかじゃない。それは、おじさん自身の本当の強さや、そのリンゴの魅力を最大限に引き出すための『紅葉のスイッチ』なんじゃないですか」

男性は、目の前にあるアガボイデスの、毒々しいほどに力強く赤いエッジを見つめた。

過酷な環境に身を置きながらも、決してうなだれることなく、ピンと天に向かって葉を伸ばしている。

「……寒暖差」

男性の強張っていた頬が、ゆっくりと緩んだ。

「そうですね。うちのリンゴは、あの厳しい寒さの中でじっと耐えて、どこよりも甘く赤く染まった自慢の娘たちです。私がここで縮こまっていては、あの子たちに顔向けができない」

男性は立ち上がり、来た時とは見違えるような、農家としての誇りに満ちた顔つきになった。

「ありがとう。なんだか、目が覚めました。明日は、田舎の農家らしく、胸を張って真っ赤なリンゴを売ってきます!」

「頑張ってください! 私もシナノスイート大好きなので、応援してます!」

紗良が満面の笑みで手を振ると、男性は深く一礼し、力強い足取りで温室を後にした。

「……かっこいいこと言うじゃないですか、湊さん。少しはタニラーの心がわかってきたみたいですね」

「まぁな。じいちゃんのノートのおかげだけど」

湊は、赤く染まったアガボイデスを再び定位置に戻した。

厳しい冬はもうすぐそこまで来ている。しかし、温室の植物たちも、そして湊自身も、その寒さというストレスを受けて、これからもっと鮮やかな色に染まっていくのだ。

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:♀エケベリア・アガボイデス『エボニー』 × ♂エケベリア・アガボイデス『ロメオ』

  • エケベリア・アガボイデス(Echeveria agavoides)
    メキシコ原産。名前の通り、アガベ(リュウゼツラン)によく似た硬くツルツルとした葉を持つ。乾燥や暑さに非常に強く、強健。秋から冬にかけて、葉の縁や全体が燃えるような赤や黒に染まるのが最大の特徴。
  • 源三のメモ:
    『アガボイデスの中でも特に黒いエッジを持つエボニーと、全体が赤黒く染まるロメオの交配。夏場はただの地味な緑色の草にしか見えないが、秋風が吹き、夜の気温が10度を下回った途端、豹変する。この劇的な変化を見るために、一年間世話をしているようなものだ。甘やかさず、厳しく育てること。それがこの系統への最大の愛情である。』

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第4回:多肉植物を「極上の色」に紅葉させる3つのスイッチ〜

お店で買った時はあんなに赤くて可愛かったのに、家で育てているうちに「ただの緑色の草」に戻ってしまった……。そんな経験はありませんか?

多肉植物の紅葉(アントシアニン色素の生成)には、明確な「3つの条件」が必要です。

  1. 十分な日照(紫外線)
    日光が足りないと、植物は紅葉するどころか光を求めて徒長(間延び)してしまいます。秋〜冬の間は、特等席でたっぷりと直射日光に当ててあげましょう。
  2. 昼夜の激しい寒暖差
    これが最も重要です。昼間はポカポカと暖かく、夜は5度〜10度近くまで冷え込む環境が、植物に「冬が来る(生命の危機)」というストレスを与え、紅葉のスイッチを押します。室内管理ではなかなか赤くならないのはこのためです。霜が降りるギリギリまで、屋外で寒さに当てましょう。
  3. 適度な水切れ
    水がたっぷりあると、植物は成長を優先して緑色になってしまいます(肥料分が残っていても同様です)。秋以降は水やりの頻度をグッと減らし、土を乾燥気味に保つことで、さらに色が濃く、鮮やかになります。

「日当たり・寒さ・乾燥」。この3つのストレスを巧みにコントロールして、あなただけの宝石のような紅葉を作り上げてくださいね。

 

【植物SS】『交配室のロゼット』第3話「札落ちのアイディンティティ」

前回の話はこちら

 

第3話『札落ちのアイデンティティ』

「紗良先生、この鉢、名前の札が刺さってないんだけど」

週末の午後。温室の棚板を拭き掃除していた湊は、ふと手を止めて紗良に尋ねた。

彼が指差した素焼きの鉢には、青白い葉の縁がドレスの裾のように細かく波打ち、ほんのりとピンク色に染まった美しいエケベリアが植えられていた。他の鉢には『桃太郎』や『ラウイ』などと書かれた白いプラスチック製のネームタグ(札)が刺さっているのに、この鉢をはじめ、棚の片隅にある数十個の鉢には何も刺さっていない。

「あー、それですね。園芸用語で『札落ち(ふだおち)』って言うんです」

ピンセットで枯れ葉を取り除いていた紗良が、顔を上げて答えた。

「札落ち? わざと外したのか?」

「いいえ、風で飛ばされたり、植え替えの時に挿し忘れたり、ひどい時はカラスがイタズラで抜いていったりして、品種名が分からなくなっちゃった株のことです」

紗良は、湊が指差した美しいフリルのエケベリアをそっと持ち上げた。

「多肉植物の世界って、血統(交配式)がすごく重要なんです。誰と誰を掛け合わせたか、生産者は誰か。それがブランドの証明になります。だから、いくらこんなに綺麗に育っていても、『名前が分からない(札落ち)』というだけで、市場価値はガクッと下がっちゃうんです。お店によっては、100円のワゴンセール行きになることもありますね」

「100円!? こんなに綺麗なのにか?」

湊は驚いた。素人目に見ても、その波打つ葉と繊細な色合いは、他の高価な株に見劣りしない。

「血統書のない血統書付きの犬、みたいなものです。私たちタニラーからすれば、札落ちは安く可愛い子が買えるチャンスでもあるんですけど……生産者さんにとっては、これまでの苦労が水の泡になる痛手なんですよ」

紗良が鉢を棚に戻したその時、温室の入り口から「こんにちは」と、覇気のない声がした。

振り返ると、季節外れの黒いリクルートスーツを着た若い男が立っていた。ネクタイは少し緩み、手にはくたびれたビジネスバッグを提げている。

「いらっしゃい……って、君、もしかして」

「あ、源三さんのお孫さんですか。僕、裏のアパートに住んでる大学生の陸(りく)って言います。昔、源三さんに土運びのバイトをさせてもらってたんです。源三さんが亡くなったって聞いて……」

陸は深く頭を下げた。湊は、祖父の葬儀で受付を手伝ってくれていた若者の顔を思い出した。

「そうか、あの時はありがとう。わざわざスーツで挨拶に来てくれたのか?」

「いえ、これは……就活の帰りで」

陸は自嘲気味に笑い、ネクタイを少し引っ張った。

「今日も、最終面接でお祈り(不採用)されてきました。これで50社目です」

パイプ椅子を勧めると、陸はどっと疲れた様子で腰を下ろした。温室の静かな空気が、彼の張り詰めていた糸を少しだけ緩めたようだった。

「僕、三流大学の出身で、これといった資格も、留学経験も、サークルの実績もないんです。面接官の目を見るとわかるんですよ。『君には何の武器もないね』って言われてるのが」

陸の視線が、棚に並ぶ名札のついたエケベリアたちに向けられた。

「世の中、結局『タグ(肩書き)』なんですよね。東大卒とか、起業経験ありとか。そういう輝かしいタグがついてるやつから売れていく。僕なんて、誰の目にも留まらない、ただの無名な量産品です」

その言葉に、湊は胸の奥が少しチクリと痛んだ。

湊自身、中堅のメーカーで経理をしているが、会社という「タグ」を外されたら自分に何が残るのか、自信を持って答えられるものは何一つない。

「……なぁ、陸くん。ちょっとこれを見てくれないか」

湊は、先ほど紗良と話していた、あの名札のない美しいフリルのエケベリアの鉢を、陸の膝の上にそっと置いた。

「綺麗ですね……。これ、なんていう品種ですか?」

「わからないんだ。風か鳥のせいか、名前の札がなくなってしまった『札落ち』らしい」

陸が不思議そうな顔をした。湊は作業台から、祖父の『交配備忘録』を引き寄せた。

札落ちの株が集められた棚の番号と照らし合わせながら、該当するページを探す。そこには、インクの掠れた字でこう記されていた。

『カラスの野郎に札を持っていかれた。母親が誰だったか、どうしても思い出せない。市場に出せば二束三文のガラクタだが、この名無しの苗は、今年のどのブランド苗よりも見事なフリルを展開している』

湊は、ゆっくりと顔を上げた。

「じいちゃんのノートには、こうも書かれてる。『名前(タグ)は、過去の血統を証明するものに過ぎない。だが、目の前にある美しいロゼット(葉の形)は、今、この植物がここで力強く生きているという現在の証明だ。札がないなら、人は肩書きではなく、この植物のありのままの姿を見るしかないのだから、それでいい』って」

陸は、膝の上のエケベリアをまじまじと見つめた。

ピンク色に染まったフリルの縁は、厳しい日差しや乾燥に耐え、自分自身の力で獲得した美しさだ。そこには、有名大学の名前も、華々しい経歴も書かれていない。

「札がないってことは、先入観なしに『お前自身』を見てもらえるってことじゃないのか?」

湊の言葉に、紗良も横から明るく頷いた。

「そうですよ! 私たちみたいな多肉オタクは、札落ちのワゴンの中から『こんなに美人なのに、なんでこんな安いの!?』って、自分だけのお宝を探し出すのが大好きなんです。だから、陸くんのありのままの形を見て『絶対うちに来てほしい』って見つけ出してくれる会社、必ずありますよ」

陸の目が、少しだけ潤んだように見えた。

彼はエケベリアの鉢を両手でしっかりと包み込み、深く息を吐き出した。

「……タグがなくても、こんなに綺麗になれるんですね」

「ああ。だから、焦る必要はないさ」

「あの……この鉢、僕に売ってくれませんか? 源三さんの土運び代、まだもらってなかった気がするんで、相殺ってことで!」

陸が少しだけ悪戯っぽく笑うと、湊も吹き出した。

「仕方ないな。出世払いで手を打とう。ただし、枯らしたら弁償だぞ」

「はい! 大事に育てます。……なんだか、もう少しだけ頑張れそうな気がしてきました」

陸は、札落ちのエケベリアを抱え、来た時よりもずっと軽い足取りで温室を後にした。

その背中を見送りながら、湊は自分の手を見つめた。

自分にも、今はまだ誇れるようなタグはない。しかし、この温室で土に触れ、名もなき植物たちと向き合う時間は、少しずつ湊自身の「葉の形」を作っているような気がした。

「さーて、感傷に浸ってる暇はありませんよ、湊さん!」

紗良がパンッと手を叩いた。

「札落ちは売れないって言いましたけど、例外があるんです。この名もなきフリルの子、すごく綺麗だったでしょ? あの子が春に花を咲かせたら、その花粉を使って別の株に受粉させるんです。そうすれば、あの美しさは次の世代に受け継がれる。そして……その新しい命に名前(タグ)をつけるのは、交配させた湊さんの役目ですからね!」

「えっ、俺が名前をつける!?」

「当たり前です! 育種家(ブリーダー)の最大の特権ですよ!」

名前のない植物が、次の世代で名前を得る。

それは、途方もなく気の遠くなるような、しかしとてつもなくロマンチックな命の連鎖だった。

湊は、名札の刺さっていない鉢が並ぶ棚を、もう一度愛おしそうに見つめ直した。

 

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:♀不明(札落ち) × ♂シャビアナ・ピンクフリル

  • シャビアナ(Echeveria shaviana)
    メキシコ・ヌエボレオン州原産。薄く繊細な葉と、細かく波打つフリルが最大の特徴。「シャビアナ系」と呼ばれる交配種群の重要な親であり、交配に使うと美しいウェーブを子孫に伝えやすい。
  • 源三のメモ:
    『母親の札を紛失してしまった痛恨の交配。葉の厚みからして、おそらく大和錦(プルプソルム)の血が入っている株だったかと思うが、今となっては確かめようがない。しかし、シャビアナのフリルと、名もなき母の強健さが見事に融合した。血統書(タグ)がないため園芸品種として登録することはできないが、私の温室の中では間違いなく一等賞の美しさだ。名前などなくても、命は輝く。』

 

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第3回:悲劇の「札落ち」を防ぐ、ネームタグの書き方〜

大切に育てている多肉植物。品種名がわからなくなる「札落ち」は、愛好家にとって身を切られるような悲劇です。カラスのイタズラは防ぎようがありませんが、実は一番多い原因は「文字が消えて読めなくなること」なのです。

よくある失敗と、正しいタグの書き方をご紹介します。

  1. 油性ペン(マジック)はNG!
    「消えないように」と油性の黒マジックで書く人が多いですが、これは大きな罠。屋外の強烈な紫外線(UV)に晒されると、油性インクは数ヶ月で魔法のように透明に退色してしまいます。
  2. 最強の筆記用具は「鉛筆」
    プラスチックのネームタグに書く場合、最も消えないのはなんと「鉛筆(2Bなどの濃いもの)」です。黒鉛は紫外線で劣化しないため、何年経っても土にまみれても、しっかりと名前を読み取ることができます。
  3. もし「札落ち」してしまったら?
    一度名前がわからなくなった交配種を、見た目だけで100%特定することはプロでも不可能です(環境によって顔が大きく変わるため)。潔く「名無しの権兵衛」として、血統やブランドに縛られず、その子のありのままの姿(顔)を愛してあげてください。それは「肉ガチャ(多肉のガチャガチャ)」と呼ばれる、愛好家のもう一つの楽しみ方でもあります。

【植物SS】『交配室のロゼット』第2話「ブルームの距離感」

前の話はこちら

kakikuheba.hatenadiary.jp

 

第2話『ブルームの距離感』

「あっ、ストップ! 湊さん、動かないで!!」

鼓膜を破るような紗良の悲鳴に、湊はピタリと動きを止めた。

手には、100円ショップで買ってきたばかりのマイクロファイバークロス。その布先は、棚の特等席に鎮座する、真っ白なエケベリアの葉にあと数ミリで触れるところだった。

「な、なんだよ急に。大きな声出さないでくれ」

「こっちのセリフです! 何しようとしてたんですか!?」

「何って……葉っぱがホコリまみれで真っ白だったから、拭いてやろうかと……」

湊が素直に答えると、紗良は天を仰ぎ、大げさな溜め息をついた。そして、ズカズカと湊に歩み寄り、彼の手からクロスをひったくった。

「湊さん、よく見てください。これ、ホコリじゃありません。『ブルーム(白粉)』です」

「ブルーム?」

「エケベリアが、強烈な紫外線や乾燥から自分の身を守るために出している、天然の日焼け止めクリームみたいなものです。いいですか、この粉は一度人間の指で触れたり、布で拭き取ったりすると……二度と元には戻らないんです。葉が落ちて生え変わるまで、一生、人間の無粋な指紋が残り続けるんですよ!」

紗良の剣幕に押され、湊はまじまじとその植物を見つめた。

それは、他の緑色や赤色の多肉植物とは明らかに異質だった。和菓子の落雁(らくがん)か、あるいは雪の結晶でできているかのように、純白の粉を厚く纏い、静謐(せいひつ)な美しさを放っている。

「これが、天然の粉……」

「そうです。この白さのベースになっているのは『ラウイ』という原種です。多肉植物界の『白き女王』。この粉をいかにハゲさせずに、純白のまま大きく育てるかが、愛好家の腕の見せ所なんです。安易に触るなんて、とんでもない!」

危うく一生モノの傷をつけるところだったのか。湊が冷や汗をかいていると、温室の引き戸が遠慮がちにガラガラと開いた。

「あの……すいません」

入り口に立っていたのは、湊と同年代くらいの女性だった。手には、小さな紙袋を大事そうに抱えている。

「いらっしゃい。……あ、もしかして源三さんのお客さんですか?」

紗良がパッと営業スマイルに切り替えて駆け寄る。女性――真由(まゆ)と名乗った彼女は、少し泣きそうな顔で紙袋の中から素焼きの鉢を取り出した。

「半年前に、源三さんから譲っていただいたんです。でも、最近急に元気がなくなってしまって……私、枯らしたくなくて、毎日お世話してるんですけど」

真由が差し出した鉢を見て、紗良の顔が曇った。湊も横から覗き込む。

それは、先ほど紗良が「白き女王」と呼んだラウイの交配種だった。しかし、目の前にある株は見る影もない。茎はヒョロヒョロと間延びし、下の方の葉は黄色くぶよぶよに溶けている。何より痛々しいのは、葉の表面だった。純白だったはずの粉はすっかり剥げ落ち、ベタベタと人間の指の跡が無数について、まだらな緑色を晒していた。

「……毎日、お水あげてました?」

紗良が静かに尋ねる。

「はい。土が乾くのが可哀想で。それに、葉っぱが少し柔らかくなっていたから、心配で毎日触って状態を確かめて……」

「真由さん。エケベリアにとって一番の愛情は『構いすぎないこと』なんです」

紗良の言葉に、真由はハッと息を呑んだ。

「毎日水をあげると、根っこが呼吸できなくて窒息してしまいます(根腐れ)。それに、心配だからと葉を触れば、この子を守っている大事なバリア(白粉)を剥がしてしまう。真由さんの『心配』が、かえってこの子を弱らせてしまったんです」

厳しい事実だった。真由はうつむき、ぽつりとこぼした。

「……同じだ。植物も、人間も」

「えっ?」

「昨日、付き合ってる彼から言われたんです。『お前の愛は重い。監視されてるみたいで息が詰まる。少し距離を置きたい』って」

真由の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。

良かれと思って毎日送っていたLINE。心配だからと細かく聞いていた彼の予定。それは愛ではなく、ただの過干渉だったのだ。指紋だらけで息も絶え絶えになったラウイは、真由の歪んだ愛情の鏡だった。

温室に重い沈黙が流れた。湊は少し迷った後、作業台にあったボロボロの大学ノート――祖父・源三の『交配備忘録』を手に取った。

さっき、紗良に怒られながらラウイのページをパラパラとめくっていた時に、ふと目に留まった文章があったのだ。

「真由さん。俺は植物のことは全然わからないド素人です。でも、これを作ったじいちゃんは、ノートにこんな風に書いてました」

湊は、ゆっくりとその一節を読み上げた。

『ラウイの交配は難しい。美しい粉を残そうとすればするほど、世話を焼きたくなるのが人間の性(さが)だ。だが、本当に美しい姿を見たいなら、水を与える手を止め、触れたくなる指を引っ込め、ただ遠くから見守る勇気を持たねばならない。美しい関係とは、常に美しい距離感の上に成り立つものだ』

読み終えて、湊は真由の前に、先ほどの真っ白で完璧なラウイの交配苗をそっと置いた。人間のエゴを一切寄せ付けず、適切な距離を保たれて育った純白のロゼット。

真由は、その傷ひとつない真っ白な葉をじっと見つめた。

「……見守る勇気」

「この株、まだ成長点は生きてます」紗良が真由の持ち込んだ鉢を指差した。「ぶよぶよになった下葉を取って、新しい土に植え替えましょう。そして、風通しの良い明るい日陰に置いて、二週間は絶対にお水をあげないでください。触るのも禁止です」

「二週間も……?」

「はい。信じて、放っておくんです。そうすれば必ず、真ん中からまた真っ白な新しい葉を出してくれますから」

真由は、力強く頷いた。

「私、やってみます。この子も……彼とのことも。今は焦らず、少し離れて、風通しを良くしてみます」

真由が帰り、温室には再び静寂が戻った。

夕暮れの光がビニール越しに差し込み、純白のラウイがうっすらとオレンジ色に染まっている。

「じいちゃんも、あんたと同じようなことを言ってたんだな」

湊がぽつりと言うと、紗良は得意げに笑った。

「当たり前です。多肉を愛する者の基本ですから。さ、湊さんも『見守る勇気』を学んだところで、お水やりのお手伝いをお願いしますね」

「ああ、任せてくれ」

「あ、ラウイの頭からジョウロで水ぶっかけたら出禁ですからね! 粉がハゲますから!」

「……えっ、じゃあどうやって水やるの!?」

多肉植物の道は、想像以上に険しく、奥深い。

湊はジョウロを持ったまま、純白の女王の前で途方に暮れるのだった。

 

【源三の交配ノート】より抜粋

交配式:♀エケベリア・ラウイ × ♂エケベリア・アガボイデス『ロメオ』

  • エケベリア・ラウイ(Echeveria laui)
    メキシコ・オアハカ州原産。1976年にアルフレッド・ラウ博士によって発見された。葉から花茎に至るまで、株全体が厚いブルーム(白粉)に覆われる最高峰の美種。粉が雌しべの受粉を邪魔するため、交配難易度がやや高い。
  • エケベリア・アガボイデス『ロメオ』(E. agavoides 'Romeo')
    赤黒く染まる硬質な葉が特徴の変異種。水に濡れると宝石のように輝く。
  • 源三のメモ:
    『ラウイの純白と、ロメオの狂気的な赤。この二つを混ぜ合わせたらどうなるか。結果は、一見するとただの真っ白なラウイのようだが、冬の寒さに当てると、白い粉の奥底からマグマのような赤みが透けて見える不思議な株になった。表面は冷静に距離を保ちながら、内に熱い血を秘めている。まるで誰かさんのようだ』

 

🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖

〜第2回:粉吹きエケベリアの「ハゲない」水やり術〜

ラウイやカンテ、コロラータなど、美しい白粉(ブルーム)を纏ったエケベリアたち。「粉を落とさずに育てる」ことは、タニラーにとって永遠のテーマです。一度触って落ちた粉は、二度と再生しません。

では、どうやって水を与えれば美しい姿を保てるのでしょうか?

  1. 基本は「株元」を狙う
    ジョウロのハス口(シャワー部分)を外し、細いノズルで直接「土」にだけ水がかかるようにそっと注ぎます。絶対に頭からザバーッと浴びせてはいけません。
  2. 究極の秘技「底面給水(ていめんきゅうすい)」
    葉が鉢いっぱいに広がって土が見えない場合は、水を張ったバケツやトレイに鉢ごと沈め、鉢底の穴から土に水を吸わせます。これなら葉に水滴がつく心配はゼロです。
  3. もし水滴がついてしまったら?
    カメラのレンズ掃除などに使う「ブロワー(シュポシュポと風を出す道具)」の出番です。水滴がレンズ効果になって葉焼けを起こしたり、粉に跡が残るのを防ぐため、風の力で水滴を吹き飛ばします。

過保護に触るのではなく、道具や工夫で「見守る」。それが粉系エケベリアを極上の白さに仕上げるコツです。