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第8話『最後の封筒』
秋が深まり、温室内のエケベリアたちが、競い合うように鮮やかな紅葉のピークを迎えていた。
空気が澄み、静寂が心地よい11月の終わりのことだ。
温室の隅にある作業小屋の掃除をしていた湊は、傾いた古いスチールデスクの引き出しの奥から、小さな茶封筒を見つけた。
切手も貼られていない、手のひらサイズの封筒。表面には、祖父・源三の震えるような字で、こう書かれていた。
『交配式不明(最後の種)』
「……最後の種?」
湊が首を傾げていると、背後から「湊さん、お茶淹れましたよー」と、紗良が作業小屋に入ってきた。
「紗良先生。じいちゃんの引き出しから、こんなのが出てきたんだけど」
湊が封筒を手渡すと、紗良の表情がサッと変わった。彼女は手洗場で入念に手を洗い、ペーパータオルで完全に水気を拭き取ってから、息を詰めるようにしてその封筒を受け取った。
「湊さん、ドア閉めて。風が入らないように」
「えっ? ああ、わかったけど……」
紗良は作業台の上に白いコピー用紙を広げ、封筒の口をハサミで慎重に切り落とした。そして、白い紙の上でトントンと軽く封筒を叩く。
「……ん? 何も出てこないぞ。空っぽじゃないのか?」
湊が覗き込むが、紙の上には何も落ちていないように見えた。
「よく見てください。湊さんの鼻息で飛んじゃうから、息止めて」
紗良に凄まれ、湊は息を殺して白い紙を凝視した。
数秒後、目の焦点が合った瞬間、湊は思わず息を呑んだ(危うく吹き飛ばすところだったが、間一髪で手で口を覆った)。
白い紙の上。そこには、胡椒の粉よりもさらに小さい、チリや埃(ほこり)と見分けがつかないほどの微細な茶色い粒が、数十個ほど散らばっていたのだ。
「これが……種?」
「そうです。エケベリアの種です。芥子(けし)粒よりも小さくて、くしゃみを一つしたら、ここにある何十という命が全部吹き飛んで永遠にわからなくなります」
紗良は、ピンセットの先でその極小の粒を一つ、そっと指し示した。
「春に交配して、夏前に鞘(さや)が弾けて種が採れるんです。源三さんが亡くなったのが初夏でしたから……きっと、体調が悪い中で必死に受粉させて、最後に採れた種なんだと思います。手が震えて、誰の花粉をつけたのか、ノートに記録することもできなかったんでしょうね」
交配式不明。
それはつまり、どんな姿に育つのか、どんな色になるのか、全く予想がつかないということだ。しかし、祖父が命を削ってまで残した、正真正銘の「最後の実生苗」になる。
「撒きましょう、湊さん」
紗良が、真剣な目で湊を見た。
「エケベリアの種は、時間が経つほど発芽率が落ちてしまいます。秋のこの時期なら、ギリギリ間に合います」
湊は、白い紙の上にある微細な命の粒を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……俺が、やるのか?」
「当たり前です。源三さんがこの温室を託したのは、湊さんなんですから」
湊の手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
これまで湊は、祖父が「すでに形にした」エケベリアたちに水をやり、枯れ葉を取り、管理してきただけだ。それはあくまで「管理人」としての仕事だった。
しかし、種を撒く(播種する)ということは、ゼロから命をスタートさせるということだ。もし自分のせいで発芽しなかったら? カビを生やして全滅させてしまったら? 祖父の最後の願いを、自分の不器用な手で潰してしまうのが恐ろしかった。
「俺には無理だよ。こんな埃みたいな種、うまく土に乗せられる自信がない。紗良先生がやってくれよ。その方が確実だろ?」
湊が後ずさると、紗良は静かに首を振った。
「湊さん。今までこの温室に、色んな人が来たのを覚えてますか?」
紗良の言葉に、湊の脳裏にこれまでの出会いが蘇った。
過干渉で恋人と自分をすり減らしていた真由さん。肩書きがないことに怯えていた就活生の陸くん。極度のプレッシャーに胃を痛めていたリンゴ農家のおじさん。親の期待に押し潰されそうだった翔太くん。休むことに罪悪感を抱えていた理沙さん。
「みんな、最初は怖がってました。失敗を恐れて、立ち止まってました。でも、湊さんが、源三さんのノートと言葉で、彼らの背中を押してきたじゃないですか」
紗良は、そっと湊の背中に手を添えた。
「種まきは、確かに失敗の連続です。発芽しないこともあるし、途中で溶けちゃうこともある。でも、土に撒かなければ、100%何も生まれない。源三さんは、完璧な結果を残したくてこの種を遺したんじゃありません。湊さんに『始めることの喜び』を知ってほしくて、遺したんだと思いますよ」
湊は、作業台の上に置かれた祖父の『交配備忘録』に目をやった。
分厚いノートの最後のページには、かすれた文字でたった一言だけ、こう書かれていたのだ。
『あとは、頼む』
湊は深く、ゆっくりと息を吐き出した。
「……わかった。俺がやる」
「よしっ!」紗良がパッと明るい顔になり、手際よく準備を始めた。
「まずは土の準備です。種まき用の細かくて清潔な土を鉢に入れて、熱湯をドバーッと回しかけてください。雑菌やカビの胞子を完全に殺菌します」
言われた通りに熱湯消毒をし、土が冷めるのを待つ。
そして、水を張ったトレイに鉢を沈め、下から水を吸わせる『腰水(こしみず)』の状態を作る。
「いいですか、湊さん。エケベリアの種は『好光性種子(こうこうせいしゅし)』と言って、光を感じないと発芽しません。だから、種を撒いた後に上から土を被せるのは絶対にNGです。ただ、表面の湿った土の上に『置く』だけ」
湊は、微細な種が乗った白いコピー用紙を、震える手で二つ折りにした。
折り目に沿って種を一列に集め、湿った土の表面すれすれまで紙を近づける。
「息を止めて。……トントン、って、紙を優しく指で弾くんです」
湊は息を殺した。
静寂に包まれた温室の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
トントン、トン。
指先で紙を軽く叩くと、目に見えないほどの微細な命の粒が、湿った黒い土の上へと、音もなく滑り落ちていった。
トントン、トン。
重ならないように、少しずつ鉢を回しながら、すべての種を蒔き終える。
「……ふはぁっ」
湊が大きく息を吐き出して肩で息をすると、紗良が「お疲れ様でした!」と拍手をした。
「あとは、乾燥しないように鉢の上からふんわりとサランラップをかけて、明るい日陰で待ちます。早ければ一週間、遅くとも一ヶ月で、緑色の小さな双葉が出ますよ」
サランラップの向こう側、湿った土の上には、もはや種の姿は肉眼では確認できない。
本当にこんなチリのようなものから、あの肉厚で美しい爪を持ったロゼットが生まれるのだろうか。途方もない奇跡のように思えた。
「何が出るかわからない、最後の種か」
湊は、ラップ越しの土を愛おしそうに見つめた。
「じいちゃん、俺、撒いたぞ。あとはお前らが、どうやって芽を出すかだ」
それは、ただの管理人だった湊が、初めて「育種家(ブリーダー)」としての第一歩を踏み出した瞬間だった。
結果がどうなるかは、誰にもわからない。しかし、土の上に蒔かれた微細な命たちは、確かに湊の手によって、明日への時間を刻み始めていた。
【源三の交配ノート】より抜粋
交配式:不明(最後の種)
- エケベリアの種子と播種(はしゅ)
エケベリアの種は非常に微細で、埃のように軽い。自生地のメキシコなどの乾燥地帯では、風に乗って岩の隙間などのわずかな土に飛んでいき、雨季の水分と強い光を感じて発芽する。 - 源三のメモ(ノート最終ページ):
『目が霞み、ピンセットを持つ手も震え、今年の花粉づけは散々なものだった。どの花に誰の花粉をつけたのか、もう定かではない。交配式を記録できない種など、園芸の世界では価値のない「名無し」だ。だが、それでも彼らは生きている。私の頭の中の設計図など軽々と飛び越え、どんな顔で生まれてくるのか。それを見届けられないことだけが、唯一の心残りだ。あとは、頼む。』
🌿 コラム:『名無しの温室』栽培手帖
〜第8回:チリのような種を発芽させる「実生(みしょう)」の魔法〜
多肉植物の醍醐味である「実生(種まき)」。しかし、エケベリアの種は本当に「ホコリ」のように小さいため、普通の花や野菜の種まきと同じように扱うと、100%失敗してしまいます。発芽を成功させるためのプロのテクニックをご紹介します。
- 土の「熱湯消毒」はマスト
種が極小であるため、発芽直後の赤ちゃんはカビや苔(コケ)に一瞬で飲み込まれてしまいます。種を撒く前に、市販の「種まき用土」に熱湯をたっぷりと回しかけ、土の中の雑菌を完全にリセットしてから冷ましましょう。 - 絶対に「土を被せない」
エケベリアの種は光を感じて発芽する「好光性種子(こうこうせいしゅし)」です。種を撒いた後に土を被せると、永遠に発芽しません。湿らせた土の上に「そっと落とすだけ」が正解です。 - 「腰水(こしみず)」と「密閉」で湿度100%をキープ
発芽するまでの間、土の表面が数時間でも乾燥してしまうと、種は死んでしまいます。鉢の半分くらいまで水に浸かるようにトレイに水を張る「腰水(底面給水)」を行い、さらに上から透明なラップや蓋を被せて、鉢の中を「湿度100%のサウナ状態」に保ちます。
カビとの戦いでもありますが、10日ほど経って、土の表面に「1ミリにも満たない緑の点(双葉)」が見えた時の感動は、何物にも代えがたい経験になりますよ!