
第10話「眠り草の証言」前編
「湿度が高い。……また雨か」
世田谷の古い洋館、『竜胆(りんどう)植物クリニック』。
主である植物学者・竜胆樹(りんどう いつき)は、窓を打つ雨音を聞きながら、アンティークの珈琲ミルを回していた。
彼が珈琲を淹れるのは珍しい。気圧のせいで偏頭痛がする時の気付け薬だ。
「先生、お客さんですよ! ……って、うわっ!」
新人刑事の桜木花(さくらぎ はな)が、玄関の方を見て声を上げた。
開け放たれたドアから、ヒールの足音がカツカツと響く。
現れたのは、モデルのように背の高い、栗色のロングヘアの女性だった。
上質なトレンチコートに、ハイブランドのバッグ。その佇まいは、映画女優のように洗練されている。
「久しぶりね、樹(いつき)。相変わらず、カビが生えそうな場所で暮らしているのね」
女性は優雅に微笑み、クリニックの段差に足をかけた。
その瞬間。
「あっ」
何もないところでつまづき、派手に体勢を崩した。
しかし、彼女の体は床には激突しなかった。
竜胆が、ミルのハンドルを回したまま、足元に置いてあったクッションを無造作に蹴り出し、彼女の落下地点に滑り込ませていたからだ。
ボフッ。
女性は柔らかいクッションに見事に着地した。
「……相変わらずだな、アイビー。学習能力というものが欠落しているのか」
「あら、ひどい言い草。樹の『先読み』の力が衰えていないか、試してあげたのよ」
女性は悪びれもせず、優雅に立ち上がって服の埃を払った。
花は、流れるような一連の動作に呆気にとられていた。
「り、竜胆さん、この人は……?」
「腐れ縁だ。大学院時代の同期、葛城(かつらぎ)伊吹(いぶき)。通称『アイビー』。……見ての通り、見た目は良いが中身は蔦(ツタ)のように図々しい女だ」
「同期!?」
花は二人の顔を見比べた。
葛城伊吹は、どう見ても二十代後半〜三十歳そこそこにしか見えない。
「え、ちょっと待ってください。竜胆さんって、今おいくつですか?」
「三十四だ」
「ええっ!?」
花は素っ頓狂な声を上げた。
「てっきり四十手前かと……あ、いえ、落ち着いてるなって! じゃあ、お二人は……」
「ええ、二十歳からの付き合いよ。もう十四年になるかしら」
伊吹は懐かしむように竜胆を見た。その瞳には、単なる友人以上の、湿り気を帯びた光が宿っているように見えた。
葛城伊吹。
彼女は現在、世界的に評価される「ボタニカル・アーティスト(植物画家)」だ。
顕微鏡でしか見えない植物の微細な細胞構造を、驚異的な観察眼と筆致で描き出すプロフェッショナル。かつては竜胆と共に植物学の研究室にいたが、ある事件をきっかけに二人とも大学を去ったという。
「昔話をしに来たわけじゃないだろう。……またトラブルか?」
竜胆が珈琲を差し出すと、伊吹は表情を曇らせた。
「ええ。……私の個展会場で、人が倒れたの。私が殴ったことになっているわ」
事件は、伊吹の個展『ミモザの夢』の開催前夜に起きた。
会場である画廊のオーナーが、頭から血を流して倒れているのが発見されたのだ。
第一発見者は伊吹。
凶器は現場にあったブロンズ像。
警察は、金銭トラブルを抱えていた伊吹を容疑者としてマークしているという。
「私が画廊に着いた時には、もう彼は倒れていたわ。でも、警察は信じてくれない。防犯カメラも切られていたし……」
「無実を証明するものはないのか」
「あるわ。……樹、あなたなら『彼』の声が聞こえるはずよ」
伊吹がタブレットで見せた現場写真。
倒れたオーナーの傍らに、巨大な鉢植えが置かれていた。
細かく切れ込んだ葉を持つ、マメ科の植物。
**『オジギソウ(Mimosa pudica)』**だ。
一般的には雑草のようなサイズだが、写真の株は低木のように大きく仕立てられ、無数の葉を茂らせていた。
そして、その葉はすべて、ピタリと閉じて垂れ下がっていた。
「……現場のオジギソウか」
竜胆はルーペを取り出し、画面を凝視した。
「植物は見ていたはずよ。……樹、お願い。あの頃みたいに、私を助けて」
伊吹の声が微かに震えた。
竜胆は溜息をつき、白衣を羽織った。
「……行くぞ、桜木。植物が恐怖に震えている現場へ」
現場の画廊は、警察によって封鎖されていたが、竜胆のコネ(と花の警察手帳)で立ち入りが許された。
床には血痕。そして、ひっくり返された椅子。
争った形跡が生々しく残る中心に、その「オジギソウ」は鎮座していた。
「見てください、竜胆さん。葉っぱが全部閉じてます」
花が指差す。
オジギソウは、触れると葉を閉じる「接触傾性(せっしょくけいせい)」を持つ。
犯人と被害者が争った際、この鉢にぶつかったのだろうか。
竜胆は、懐中時計を取り出して時刻を確認した。
現在、午後三時。
そして、伊吹がオーナーを発見し、通報したのが午後二時。
空白の一時間。
竜胆は、閉じた葉の一枚にそっと触れようとして、止めた。
「……おかしいな」
「何がですか?」
「このオジギソウは、眠りすぎている」
竜胆の目が、鋭く光った。
「伊吹。お前がここに来た時、この植物はどんな状態だった?」
「え? ……気が動転していてよく覚えていないけれど、確か……葉は開いていたと思うわ」
「ほう。……なら、犯人はお前じゃない」
竜胆は断言した。
「だが、お前の記憶力がポンコツでなければ、という条件付きだがな」
【Botanical Note】
オジギソウ(Mimosa pudica)
ブラジル原産のマメ科植物。別名ネムリグサ。
葉に触れると、お辞儀をするようにパラパラと閉じて垂れ下がる性質(接触傾性)が有名です。
これは、葉の付け根にある「葉枕(ようちん)」という器官の細胞から水分が瞬時に抜けることで起こる、水圧の変化による運動です。
この反応は非常に素早く、わずか数秒で閉じますが、再び元の状態に戻る(開く)には時間がかかります。
通常、一度閉じた葉が完全に開くまでには、約20分〜30分程度の時間(不応期)が必要です。
この「回復にかかる時間」は、植物の種類や気温によって一定のリズムを持っています。つまり、オジギソウの開き具合を見れば、「最後に触れられてから何分経ったか」が分かるのです。