探偵事務所のドアが開いた瞬間、甘く、重たい香水の匂いが漂ってきた。
現れたのは、喪服のように黒いワンピースを纏った、透き通るような肌の美女だった。
霧島冴子。
資産家の夫を持ち、その美貌で社交界でも有名な女性だ。
「……夫を探していただきたいのです」
彼女は革のソファに浅く腰掛け、伏し目がちに言った。
夫の隆一郎が、一週間前から行方不明だという。
警察にも届けたが、事件性がないとして本格的な捜査はされていない。
まあ、よくある話だ。金持ちの道楽夫が、若い愛人と海外へ逃避行、といったところだろう。
「分かりました。立ち回り先などを洗ってみましょう」
僕、工藤は、事務的に依頼を引き受けた。
しかし、彼女が去った後も、事務所にはあの甘い香りがこびりついて離れなかった。
それは高級ブランドの香水などではなく、もっと原始的で、脳の奥を痺れさせるような、熟した果実の腐臭に近い香りだった。
調査の一環として、僕は霧島邸を訪れた。
都内の高級住宅地に建つ、要塞のような豪邸だ。
冴子夫人は、僕を庭の奥にある巨大なガラス張りの温室へと案内した。
「夫は、ここがお気に入りでしたの。一日の大半をここで過ごしていましたわ」
温室の扉が開くと、ムワッとした熱気と湿気が押し寄せた。
眼鏡が一瞬で曇る。
そして、あの匂いだ。事務所で嗅いだ、甘ったるい香り。その発生源はここだったのか。
視界が開けると、僕は息を呑んだ。
そこは、ジャングルだった。
天井から無数に吊り下げられた、異様な形の植物たち。
『ウツボカズラ(ネペンテス)』。
蔓の先についた捕虫袋(ピッチャー)が、至る所で口を開けている。
だが、サイズがおかしい。
僕が知っているウツボカズラは、せいぜい指先サイズか、大きくてもコップ程度だ。
しかし、ここのものは違う。2リットルのペットボトル、いや、ラグビーボールほどもある巨大な袋が、ゴロゴロとぶら下がっているのだ。
「……すごいですね。これ、全部ウツボカズラですか?」
「ええ。夫のコレクションですの。世界中から希少な巨大種を集めていましたわ」
冴子夫人は、愛おしそうに一つの袋を撫でた。
赤黒い斑点が入ったその袋は、毒々しくも艶やかで、ヌラヌラと光っていた。
『ネペンテス・ラジャ』。王様と呼ばれる巨大種だ。
「夫はね、素晴らしい肥料を使っていたんです。だから、こんなに立派に育って……」
彼女の声は、湿った空気に溶けていくように甘かった。
「隆一郎さんは、どんな方でしたか?」
僕は温室の中を歩きながら質問した。
頭上の巨大な袋が、ゆらりと揺れて僕の肩を掠める。
「……情熱的な人でしたわ。欲しいものは何でも手に入れないと気が済まない。お金も、名誉も、女も……そして、この植物たちも」
彼女の口調には、微かな棘があった。
調査によれば、隆一郎はかなり強引な地上げで財を成し、家庭内でも暴力的だったという噂がある。
この温室も、彼にとってはただの「戦利品置き場」だったのかもしれない。
「でも、最近は変わりましたの」
冴子夫人は、温室の最深部にある、一際巨大なウツボカズラの前で足を止めた。
それは、緑色一色の袋で、縁(襟)の部分だけが鮮やかな赤色をしていた。
袋の大きさは、大人の頭がすっぽり入りそうなほどだ。
『ネペンテス・トランカータ』。
「夫はね、『全てを捨てて、この子たちと一体になりたい』って言っていましたわ」
一体になりたい。
その言葉に、僕は奇妙な違和感を覚えた。
僕はその巨大な袋の中を覗き込もうとした。
袋の口には、テラテラとした蜜が分泌されており、甘い香りを放っている。
その奥には、たっぷりと溜まった消化液が見えるはずだ。
「……見てはいけませんわ」
冴子夫人が、スッと僕の前に立った。
「食事中かもしれませんもの」
「食事?」
「ええ。この子たちは大食漢なんです。虫だけじゃ足りなくて……もっと栄養価の高いものを欲しがるんですの」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、ウツボカズラの赤い襟のように魅惑的で、危険だった。
僕は足元の土を見た。
温室の隅に、園芸用のスコップと、何かの「骨」のような白い欠片が落ちていた。
鶏の骨か? それとも……。
背筋に冷たいものが走った。
隆一郎は失踪したのではない。
彼はまだ、ここにいるのではないか?
この甘い香りのする袋の中で、ゆっくりと、時間をかけて、溶かされているのではないか?
「……奥様」
僕は喉の渇きを覚えながら聞いた。
「ご主人は、本当に植物がお好きだったんですね」
「ええ。大好きでしたわ」
彼女は巨大な袋に頬を寄せた。
「だから、本望だと思いますの。……大好きな植物の『血肉』になれたんですもの」
彼女は今、比喩を使ったのだろうか。
それとも、事実を語ったのだろうか。
温室の換気扇が回り始め、風が吹いた。
巨大なウツボカズラの袋が揺れ、ポチャリ、と重たい液体音が中から響いた。
それはまるで、満腹の怪物がゲップをした音のように聞こえた。
僕は逃げるようにその屋敷を後にした。
証拠はない。
警察に「植物が人間を食べたかもしれない」と言っても、鼻で笑われるだけだ。
ウツボカズラの消化液は強力だが、骨まで溶かすには長い時間がかかる。
だが、もし特殊な「処理」をした後だったら?
あるいは、彼女が言った「素晴らしい肥料」というのが、有機的な何かだとしたら?
帰り道、僕は自分の服についた匂いを嗅いだ。
あの甘い、腐ったような果実の香り。
数ヶ月後。
霧島隆一郎の失踪宣告が認められ、冴子夫人は莫大な遺産を相続した。
噂では、彼女は温室をさらに拡張し、植物たちは以前にも増して巨大に、艶やかに育っているという。
僕は時々、あの巨大なトランカータの袋を思い出す。
あの底知れない暗闇の中で、隆一郎は今も、愛する妻と植物に抱かれて、甘い夢を見ているのだろうか。
それは、ある意味で究極の「植物葬」なのかもしれない。
【Botanical Note:ウツボカズラの食欲】
■ ネズミをも溶かす消化力
『ウツボカズラ(Nepenthes)』の中でも、ラジャやトランカータといった巨大種は、捕虫袋が30〜40cm以上にもなり、現地ではカエルやネズミ、時には小鳥さえも捕食することが確認されています。
袋の中に溜まった液体には、タンパク質分解酵素(ペプシンに似た成分)が含まれており、獲物をゆっくりと溶かして栄養として吸収します。
■ 甘い罠
袋の口元(襟・リップ)からは、甘い蜜と香りが分泌され、獲物を誘き寄せます。
この襟は非常に滑りやすく、一度足を滑らせて中に落ちると、内壁のワックス効果と反り返った棘(返し)によって、二度と這い上がることはできません。
美しく、甘く、逃げられない。
ファム・ファタール(運命の女)の象徴のような植物です。